「かわいそうな女」が好きな男がもう無理

 

 

生い立ちや背景に簡単に同情できて哀れんで簡単に守ってやりたい助けてやりたいと安直的なことを言えてしまう男がわたしは嫌いだ。まじで嫌いだ。

でもそういう男ばかり寄ってくる。わたしにも非があるのはわかってる。

 

そういうのが好きな男は、そういうめんどくさい女にすぐ気づくし、そういう女の面倒を見たがる。

だけどなー嫌なんだよなー。嫌っていうかもうそれ今は求めてないんだよなー。

 

いや実際ありがたいんですよ、ありがたいけど、なんというか、自分の力で他人を導いてあげたい更生させてあげたいって気持ちを前面に出されて、それを異性としての好意だと言われるのって、なんか違和感がすごい。

めちゃくちゃ傲慢だし、なんなら虚偽じゃない? 夜回り先生の真似でもしたいのだろうか。

 

ノブレスオブリージュならまだわかる。それならばこちらも嬉々としてその恩恵を受け取らせていただきたいと思う。

好きになってからそういう背景を知って、好きだから力になりたいと思ったんならわかる。

 

でもそういうことを言い出す男は、そういう話を聞いてから相手を好きになるのだ。

自分を彩るためのパーツとしてそういう「かわいそうな女」を求めている、そしてこちらがその条件を満たしていそうなことに嬉々としている、その気配を出された途端に本当に寒々とした気持ちになってしまう。

 

そういうことを言うと、またそうやって捻くれた見方ばっかする、とか言われるんだけど、でも実際そういうのってわかってしまうんだよな。

男だけじゃなく、女でもそういう人はいるんだろうけど、あいにくわたしは女なので、そういうことを言ってくるのは全員男だった。

 

とはいえ、不幸っぽい他人を自分の快楽に還元したい人だけじゃなく、純粋に心配して言ってくれる人がいることも、もちろん知っている。

全員が全員、オナニーのためにかわいそうな他人をそばに置きたがるわけじゃないのも知ってる。

そこまで気持ち悪い人間ばかりではないことも知ってる。

 

ほんと、ほっとけない、とかいう台詞ほど注釈が必要な言葉もないと思う。

ほっとけないんだよね、はわたしが今まで言われてきた言葉の中でもトップテンに入るぐらい何度も言われてきた言葉だ。近しいものだと、心配になる、とか。

 

実際めちゃくちゃ迷惑かけたり心配にさせたことも高校生から今に至るまで多々あったのでその点に関してはまじでごめんなさい…… という気持ちだし、心配してくれた人たちに関しては本当に申し訳なさとありがたさがある。

そういう話になるたびに、当時はご迷惑をおかけしました、と内心気恥ずかしく、ばつの悪い思いをしている。

だからそこはいいのだ、恵まれてるとか安易に言いたくないけど、実際そういう点では恵まれてる。

 

わたしが嫌なのは、リアルタイムで立ち会っていたわけでもそこに至るまでの思考や葛藤を知ってるわけでもない人間が、表面的な年代表を見て、なんなら都合よく解釈して、苦労したんだね、ほっとけないな、と目を潤ませること。

おめーはなにを知ってんだ、つらかっただろうけど、とか恍惚とした顔で自分の体験も交えて諭そうとしてくんないいこと言おうとすんな求めてねーよ、ってなっちゃう。なっちゃうよそんなん。

 

先日飲んだ大学生もそういうタイプだった。そういうげんなりすることを易々としてしまえるタイプだった。悪気がない分、一番辟易させられるタイプ。

顔は悪くないのにいちいち自分に酔いしれるような発言が目立つ子だった。ある程度のラインを超えて意識が高いとそうなっちゃうの? なんなの?

 

こっちが尋ねてもないのに嬉々として当時の年上の恋人との出会いから別れの顛末を丁寧に教えてくれ、挙句には、つらかったけどいい思い出だし幸せになってほしいと思ってる、とか誰しもが人生で一度は思ったことのあるような台詞を、映画の名シーンみたいに言ってきて、こういう奴が本当に嫌なんだ、と思った。

 

他人との思い出を、求められてもないのに自分が酔いしれるためだけに語って感傷的な顔になりたがる奴ら。

そういうことする人間に、自分との時間も全米が泣いた感動作並みに脚色され、また他の誰かに披露されるのかと思うと反吐が出そうになる。

他人の人生の一部を自分の人生をドラマチックに見せるためのものにするな。ムカつくから。そういうのは椎木知仁だけでいいから。椎木知仁だけに許された特権だから。

 

他人の恋物語なんて、活字ならまだ琴線に触れたりもするけど、言葉だと温度の低い笑顔を浮かべるしかないぐらい、薄っぺらい。

だから、ほんと、なんていうか、本当にわかってもらいたい人、知ってほしい人以外に、自分と自分の大切だった人との出来事を、酔いしれたいからってぺらぺら喋るのは愚かの極みなんだよな。

そういう自分の大切だった思い出が相手のなかで価値のないものに貶められるのが嫌だという感覚を、目の前の彼は持ち合わせていないのだろうか。それが本当に不思議だった。

 

その大学生は、2軒目の居酒屋で、「でもなんかわかったわ」と言ってきて、もうそれだけでなんとなく予想がついた。

 

「明るいけど実は〜」

このくだり。そうですね。明るいけど実は秘めたる暗さがあったりするんですよね。そのとおりです。

からのコンボで、「ほっとけない」、これに「守ってやりたくなる」が追加されたらもうパーフェクトすぎる。フルコンボだドン。

その日の彼は自己解釈もプラスして、なかなかいい点を叩き出してくれた。

 

個人的に、括弧の部分をちゃんと言ってくれる人が好きなので、もしその人が、

「俺は一人間をどうにかしてあげられるような大層な人間じゃないし、同情でもなく哀れんでるわけでもないとは言い切れない。自分が一人間に作用する快楽を欲している自己満足のためにどうにかしてあげたいって気持ちの方が強いけど、でも実際なんだかほっとけないし、責任持てるわけじゃないけどどうにかしてあげたいなとは思ってる」

とか大真面目に気持ちの悪いことをちゃんと言語化して言ってくれたら、もしかしたらその人を好きになれたかもしれない。

 

でもその人は、たった1時間半程度で浅く分析したわたしの像を、「ほっとけない」と評して、その2時間後ぐらいには「好き」だとか言ってきた。

 

そんな状態で好きとか言われても、はあ、って感じじゃないですか? こいつ酔ってんなーとしか思えないし、より自分の人生の主人公になりたいのかもしれないけど、こちとら他人の人生を引き立てるためにそばにいるとか無理じゃないですか?

わたしだってわたしの人生の主人公だっつーの。

 

なにが気持ち悪いって、自分の心理を把握しきらないままに「ほっとけない」を、疑いもなく「(異性として好きみたいだから)ほっとけない」とかいう意味合いで使うのが気持ち悪いのだ。

 

自分の心理をちゃんと把握しきれてない、そもそも把握しようともしてない、かつ言語化できない人間に今まで幾度なく困惑させられてきた。

要素を分析しないで結果だけ話すから端的で過剰な言葉になるのだ。それが気持ち悪い。自分でもよくわかってない勢いだけの言葉で他人の人生に介入してこようとするのが気持ち悪い。

 

とまあ、散々言ってきましたが、わたしはべつにその男子大学生がめちゃくちゃ嫌いってわけではない。普通に話してる分には普通に面白かった。普通にいい友人にはなれると思う。

 

ただ、もう今のわたしはこういうふうに「(他人の人生をかわいそうでほっとけないと思った=)好き」と言ってしまえるような人は受け入れられなくなってしまったんだなと思う。残念だけど。

 

わたしの供給は、おそらくこういう人間の需要とぴったり合う。

故意ではなくとも、実際「かわいそうな女」として同情されて、美味しい思いをしてきた。「つらかったの」と泣きついて、慰めてくれる相手に依存したりもしてきた。

 

だからそういうふうに言ってくれる人たちを大事にしたら、多少は落ち着くところに落ち着くというか、わたしなりのハッピーエンドに近づくんだろうけど、いかんせんここ数年で欲しいものが変わってしまったので、もう無理なんだろうなあと思う。

そういう男に好かれてしまう自分も、もうあまり好きじゃないなあと思う。

 

かといってわたしが今求めているタイプの人は、わたしみたいな男に泣きついてきた女を十中八九求めていないので、どうしたもんかなと思っている。

そういう人間が求めるタイプの異性に、わたしはもうなれないような気がするんだよな。自己肯定感とか、そういう面で。

 

需要と供給が一致しないというのはしんどい。

自分が「かわいそうな女」でいたいからそうしてるならまだしも、他人の人生をドラマチックにするために「かわいそうな女」でいなきゃならないのは馬鹿馬鹿しい。

自分に酔いしれるために他人との思い出を安売りする人間と飲むのは疲れる。

 

そういうことを思ったりした夜でした。

以上です。